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【あの有名店の成立ち】マクドナルド編

こんにちは。
 
今回は誰もが知る有名店の成立ちを追ってみたいと思います。取り上げる有名店は「マクドナルド」。誰もが知ってるいるファーストフード店で、ほとんどの方が食べた事があるのではないでしょうか。メインメニューの「ハンバーガー」は大きさも作り方も世界共通です。お馴染みの「てりやきマック」や「月見バーガー」は日本限定のメニュー。日本人にはお馴染みの身近なメニューですが、海外の人達からするとわざわざ日本に来ないと食べられない遠い味なんですね。合理的なサービスの提供システムを築いたのもマクドナルドと言われています。そんなマクドナルドの創業時を追ってみましょう。
引用:https://www.photo-ac.com/main/detail/4659251#goog_rewarded
 
■誕生
その誕生は1948年、アメリカ・カリフォルニア州でマクドナルド兄弟が始めたハンバーガー店です。ハンバーガーやシェイクなど、車を運転しながらでも食べられるものを提供していました。調理を分業化することでスピーディーなサービスのシステムを確立。現在のファーストフードの原型は創業時に既に確立されていたんですね。この人気店をフランチャイズとして成長させたのが、当時、マルチミキサーのセールスマンだった「レイ・クロック」です。「マクドナルドの父」と呼ばれるレイ・クロックは、マクドナルド兄弟とフランチャイズ契約を結び、全世界8000店舗を超すまでに拡大させた立役者です。しかし、その生涯は苦労と挫折にまみれた人生でした。
 
■成功者レイ・クロックの苦労
クロックは1902年、米国イリノイ州シカゴ近郊の町オークパークで生まれます。高校中退後、様々な職業を経て、紙コップのセールスマンとして成功。後の1941年、39歳の時にマルチミキサーの販売会社を立ち上げ、会社経営は順調。マクドナルドのフランチャイズ化という新たな冒険などしなくても、順風な人生を送ることができたはずでした。1954年、クロックのミキサー販売会社に「カリフォルニア州サンバーナディーノ市で、マクドナルド兄弟が使っているミキサーと同じものを売ってくれ」という電話がかかってきます。マクドナルド兄弟はハンバーガーショップを経営し、8台のマルチミキサーを使って儲けている、という話を聞きつけ、好奇心を抱いたクロックは兄弟の店を訪ねます。実際に、店内では8台のマルチミキサーが稼働していましたが、クロックの目に入ったのは、清潔な店内、教育された店員、ハンバーガーとフライドポテトにドリンク類だけという簡素化されたメニューだけでなく、ドリンク類は紙コップ、ハンバーガーやフライドポテトも紙に包んで提供されている光景でした。通常のレストランに備えられる食器洗浄機もありません。マクドナルド兄弟のハンバーガーショップは、無駄がなく効率的、合理的に運営がなされ、パテを焼く者、バンズを挟んで包む者といった分業化体制が整えられ、客の注文から30秒以内にハンバーガーの提供を実現していました。
引用:https://www.photo-ac.com/main/detail/23422398
 
クロックは合理的なシステムを実現するこの店に魅了され、兄弟を説得して何とかチェーン展開にこぎつけます。1955年、妻の猛反対も押し切り、クロックは彼らと契約を結び、イリノイ州郊外のデスプレーンズに「マクドナルド1号店」が誕生しました。(ちなみに1号店は、現在では記念館として限定日に一般公開されています。)ところが、マクドナルド兄弟はクロックを裏切り、クロック以外の人物にフランチャイズ権を5000ドルで売ってしまいます。クロックは致命的なことに口約束のみで、兄弟とは正式な契約書を交わしていませんでした。クロックはフランチャイズ権を取り戻すために、5倍の2万5000ドルを支払うこととなりました。出店した1号店の売り上げだけではどうにもならず、クロックは借金をミキサー販売会社の利益で補填しました。新規事業のマクドナルドは巨大な重荷となりました。クロックは毎日、朝から店の準備、トイレ掃除もこなし、夜にはミキサー販売会社の仕事もこなしました。寝る暇もなく働いた甲斐もあり、翌1956年には11号店にまで店舗が広がります。
引用:https://www.photo-ac.com/main/detail/22843370
■マクドナルドの拡大
しかし、これほど猛烈に働いても、クロックはほとんど利益を得ていませんでした。店舗が増えて売り上げは伸びても、契約形態がいいとは言えず働き損となっていたからです。店舗開店に日数を要することが大きな障害でした。システムの見直しが必要でした。そんなとき力になったのがハリー・ソナボーンです。ソナボーンは「新店舗はクロックが場所を決め、その土地をローンで購入する。さらに、その土地を抵当として銀行から金を借り、店舗を建設する。フランチャイズ加盟者には、売り上げの1.9%に加えて、抵当権の返済も求める」という方式を提案。クロックは迷わず採用し、その結果、マクドナルドの店舗価値によって土地の値も上がり、クロックは大いに潤うこととなりました。チェーン展開は急速に進み、1960年には全米で200店舗になります。クロックは、社名をマクドナルドコーポレーションと変更しました。
 
翌年の1961年、マクドナルド兄弟が、すべての権利を売りたいとクロックに申出ます。兄弟が提示したのは270万ドルで、それはフランチャイズで得た利益の15倍もの金額でしたが、確執のある兄弟との関係を解消できれば、とクロックは応じます。ところが、またしても兄弟がクロックを裏切ります。すべての権利を手放したはずなのに、兄弟は「自分たちが運営した1号店の権利は含まれていない」と言い出したました。その店舗はマクドナルド・ハンバーガー誕生の店、クロックは引き継ぐのが当然と考えていました。そこでクロックは、兄弟の店の近くにマクドナルドの店舗をオープンし、今度こそ兄弟を追い込むことに成功しました。1965年、マクドナルドは株式上場をし、クロックは莫大な創業者利益を得ました。そして1984年に81歳の天寿をまっとうするまでに、世界で8000店を超す店舗を広げたのです。
引用:https://www.photo-ac.com/main/detail/4669411#goog_rewarded
■成功者の光と影
実業家として大成功したクロックですが、妻とは離婚、ピンチを救われ信頼を置いていたソナボーンとは経営方針で意見が合わず退社させる結末。「トップは孤独である」クロックが語った言葉です。米国の食を代表するマクドナルドハンバーガー。その成り立ちには、平穏な人生を捨て、逆境や裏切りにもめげず、孤独になりながらも突き進んだ男の姿があったのでした。
 
いかがでしたか?幸せや笑顔の象徴のようなイメージのあるブランドですが、その成り立ちには裏切りや孤独があったなんて驚きでしたね。しかし逆境を乗り越えるクロックの不屈の魂があったからこそ、今のマクドナルドがあるなんて胸が熱くなりすね。
 
 
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