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銀座はいつから栄えているのか、商業の中心地に成長させた「銀座煉瓦街計画」とは?

こんにちは!

貸店舗物件をお探しの皆様。本日は、今では日本の商業の中心である銀座地域において明治時代に行われた「銀座煉瓦街計画」について説明していきたいと思います!

 

銀座煉瓦街計画とは?

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明治の東京の発展は銀座地区から起こりました。江戸期の銀座は日本橋に一歩も二歩も譲る小商人と職人の街であり、2階建て建物が並んではいた者の、煙管や子孕み薬が売られているような街でありました。銀座から発展が始まった理由としては、南の国際港横浜から鉄道が開通し、東側には外国人居留地が計画されたという立地の良さが挙げられるでしょう。また、銀座の周辺には、大隈重信、井上馨、渋沢栄一など文明を引っ張る主要人物が多く住んでいたこともあります。
明治5年、銀座大火により、銀座地区は焼け野原となりここに銀座煉瓦街計画が始まりました。銀座煉瓦街計画は道路の改正と煉瓦造化の2つの主軸から構成されています。

表 煉瓦街計画の概要

街路計画

パターン整理

銀座地区については大きな街区を分割するにとどめ、木挽町以東は新道を縦横に計画し、新たに商業地区とした。新街路パターンには広場や公園といった都市施設はない。

拡幅

馬車や人力車と言った、維新以降登場した車行に合わせ道路の拡幅が行われた。ニューヨークやワシントンなどの事例を元に幅15間とされた。

歩道設置

新たな車行を受入れ、道路拡幅を行った副作用として、歩道と車道の分離が必要となった。大通りの歩道と車道の境には並木が植えられた。

ガス灯

東京営繕会議所は、市中の闇を払い少しでも明るく賑やかな街に戻すため街灯設置の計画を建白した。

建築計画

全家屋の煉瓦造化

大小様々な建物全てを煉瓦造に建て替える。

道幅に応じた規模

通りに面する煉瓦家屋は、それぞれの敷地の大小にかかわらず、広い道に面するものほど大きく、狭くなるにしたがって小さくなるよう三段階に規制される。

連屋化

街区ごとに店を横に連ねて一棟とし、壁一枚で区切られる連屋形式とした。

歩廊設置

街区単位で一続きとなった店頭に大小のアーケードを張り出す。

様式の統一

規模、構造のみならず、煉瓦家屋の様式も計られウォートルス得意のジョージアン・スタイルが採用された。

 体制が整い、明治5年からいざ事業を進めようとする段階で、旧住人が立ち退きを拒んだり、この事業に対する事実無根の風評被害から市民の反発が起こり難航する一面もありました。また、煉瓦街計画を掲げたものの、その肝心の煉瓦の生産をになうことが出来る主体も無いといった問題もあったようです。しかしこの問題に対してもウォートルス自身が煉瓦製造施設を築き対策を打ちました。
 そして明治6年に大通りの両脇を煉瓦造の建物が並び埋めました。しかしその反動も大きく、煉瓦造はコストが高く、特に自築者にそれに対応する体力のある者は少なくなり、建築局も後退せざるをえず、少しずつ規制を緩和していくほかありませんでした。
 煉瓦街計画の実績をみると、木挽地区まで計画が及ばなかったものの銀座地区においては最低限のノルマは果たしたと言えるでしょう。パターン整理は予定通り完成し道路の拡幅も行われ現在の銀座大通りにも15間のまま受け継いでいます。歩車分離も行われ、明るさの性能は十分とは言えないものの街頭の整備もなされました。建築計画についても、先に述べたように規制の後退はあったものの700mにもわたる煉瓦造ストリートもでき、一街区一棟はかなわなかったが連屋化もなされ、それに伴うアーケードも完成しました。煉瓦街と名乗るには十分な街のたたずまいにはなりました。
 そして明治20年を境に、近代産業育成は身を結びはじめ、問屋業に入れ替わり小売業が活気を集めるようになりました。銀座では小売業の商品も欧米化が進み、洋品が多く並ぶ商店街へと様相を変え、さらにサービス業も商店街に登場していきました。

 

参考図書:「明治の東京計画」 藤森照信,岩波書店,1982年

写真出典:http://www.ginza.jp/history

 

いかがでしたか?

今回は銀座の反映のきっかけとなった「銀座煉瓦街計画」について概要を紹介しました。現在とても栄えている街でも、昔はどんな街だったのかを調べてみると意外な発見がありとても面白いです!現在貸店舗物件をお探しの皆様も是非参考にしてみてください!


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