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エリアレポート【人形町駅】

こんにちは!

今回は人形町エリアについてご紹介させていただきます!

 

人形町駅は東京都中央区北東部にある地区で正式には『日本橋人形町』と表記されます。江戸時代には西の銀座と肩を並べた東の繁栄地でした。1842年(天保13)に浅草猿若(さるわか)町に移転するまで江戸芝居の中心地で、人形市(いち)も立ち、土産(みやげ)物の人形を売る店が並んでにぎわっていたのが町名の由来と言われています。しかし、明治以降は人形町といえば水難・安産の守護神として信仰される水天宮との縁が深く、その門前町として発展しました。現在は金融機関や会社の本・支店の並ぶ商業地区です。また、門前町らしく老舗(しにせ)の料理店・菓子店があります。東京地下鉄日比谷線と都営地下鉄浅草線が人形町駅で交差しています。

天正 18 年 (1590) 、徳川家康が江戸に下向した当時、江戸城のある台地の東側は広大な湿地(汐入の干潟)でした。ここを埋め立てれば水上交通の便もよかったため、家康は早速、街の造成に着手しました。これが、城に対する下の町として造られた、現在の中央区全体と千代田区一帯の地域です。下町と言われる所以はここにありました。掘り取った土を両側の土地に積み上げ、低地の嵩上げを行いながら整地し、掘割が縦横に巡らされて行きました。この時に出来た掘割の代表が、今も残る日本橋川です。埋め立ては、日本橋北部から始まり、ほぼ 30 数年をかけて常盤橋から本町、浅草筋、道三河岸あたりへと徐々に進み、浜町以南新橋あたりまでの造成が完了しました。人形町もこの時期に産声を上げたのです。

 

江戸開府に伴い、大名の江戸屋敷が建ち始め、街造りが進み、人足、職人等の流入で江戸の人口は急激に増加しました。それに伴い、大量の生活物資が必要となりました。このため家康は「地代免除」の特典を設け、江戸城下への出店を奨励しました。この制度は「権現様御遺訓」と呼ばれ江戸末期まで続きます。これにより京・大阪などから商人たちが続々と集まり、日本橋を中心に商業地域が出来上がります。日本橋の北詰から江戸橋にいたる河岸は、関東大震災で築地に移転するまでの約320年間、魚河岸五町(長浜町、室町など)と呼ばれた江戸の台所でした(現在、日本橋の袂に碑があります)。また橋の東側一帯(人形町など)は、繊維街として発展。朝は魚河岸、昼は歌舞伎、夜は吉原に人々が繰り出し、「朝昼晩三千両のおち処」と唄われた記録もあります。

 

江戸開府後の寛永元年 (1624) ころ、京都から江戸に下ってきた歌舞音曲の名人猿若勘三郎が、猿若座(のちの中村座 ) を人形町に開いたのが江戸歌舞伎の始まりです。次いで、泉州堺の村山又三郎が村山座(のちの市村座)を興し、ともに人形町に歌舞伎上演の芝居小屋を建てました。場所は現在の人形町 3 丁目と堀留町の辺りです。周辺には人形浄瑠璃をはじめ、説経芝居から見世物小屋、曲芸、水芸、手妻 ( 手品 ) と安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並び、大名から庶民まで多くの人々が、当時の代表的な娯楽だった芝居見物を楽しんでいました。当時の大芝居見物は、芝居茶屋とセットの一日がかり。まず朝、茶屋に上がり(火を使う照明は許されなかったので、興行は昼間のみ)桟敷で芝居を見、幕間には酒に肴、お茶やお弁当が桟敷に運ばれ、芝居が終わると茶屋でくつろぐという贅沢な遊びでした。芝居はあらゆる流行の発信源。役者にあこがれ熱狂する人々の姿は、今で言う追っかけ。芝居や芸能のお好きな方には理解できるでしょう。

 

安くて、短時間で十分に芝居を楽しめる、庶民の娯楽として盛況だった人形芝居。この界隈(現在の人形町 2 丁目周辺)には人形を作る人、修理する人、商う人や、人形を操る人形師らが大勢暮らしていました。また、季節ごとに市がたち、正月には手鞠・羽子板、 3 月には雛人形、 5 月には菖蒲人形などを商い、年間をとおして賑わいの絶えない街でした。「元禄江戸図」には堺町と和泉町の間の通りに「人形丁」と書かれており、当時からこの呼び名で親しまれていたようです。正式に「人形町」という現在の町名になったのは、関東大震災以降の区画整理によるもので、昭和 8 年になってからのことです。 現在人形町 3 丁目には、辻村寿三郎さんの人形館「ジュサブロー館」があり、歴史の深い因縁を感じさせられます。

 

慶応 4 年 (1868) 、明治の新政府は「江戸ヲ称シテ東京トセン」とし、 260 余年続いた江戸の街は、新しい都市へ変貌を始めます。人形町を大きく変えたのは、明治 5 年の鎧橋の完成による新道開通と水天宮の移転でした。かつては “ 鎧の渡し “ が唯一の渡河手段でしたが、新道が開通しその年、赤坂から有馬家が移ってきました。水天宮はこの有馬の藩邸内社で、人々は門外よりお賽銭を投げ入れて参拝していました。毎月 5 日の縁日に限り、庶民にも開放されたため「なさけありまの水天宮」と流行語になったほど。また、鈴乃緒(鈴を鳴らすさらしの鈴紐 ) のおさがりを腹帯に用いると安産になる、と言うご利益に誘われ参拝客が押し寄せました。 5 日の縁日や戌の日には参詣人は、江戸時代からの大店、芝居小屋や寄席、飲食店などが立ち並ぶ人形町にも溢れ、東京市有数の繁華街として栄えました。ちなみに「甘酒横丁」の名前は、当時あった尾張屋という有名な甘酒屋に由来します。

 

江戸の初期。町中には、武士を対象とした娼家が現れはじめます。風紀の乱れを恐れた幕府は、慶長 17 年 (1612) 、葺屋 ( ふきや ) 町東の葭 ( よし ) の生い茂っていた二町四方 ( 約1万5千坪 ) の沼地を埋めたてます。塀で仕切り廓をつくり、町中に点在していた娼家を移しました。こうして生まれたのが幕府公認の遊郭・吉原です。はじめは「葭原 ( よしはら ) 」でしたが、後にめでたい文字をあて「吉原」と表すようになります。芝居見物と並び、遊郭での遊びも江戸の華。武士に限らず羽振りの良い商人や職人、町人たちにもてはやされ繁盛を極めていたようです。 寛永 9 年 (1639) の「武州豊島郡江戸庄図」に、塀で囲まれた吉原が記されていますが、明暦3年( 1657 )の大火(振袖火事)で廓のほとんどが焼失。この地での営業は 40 年足らずで、浅草に移ってしまいます。現在の ” 大門通り “ の名称は、吉原の大門に通じる街路の名残りです。

 

江戸の末期、天保の改革(1841年~)による芝居小屋の移転で、一時活気を失った街は、明治に入ると復活します。現在の人形町二丁目辺りには芸妓の置屋御茶屋が多数集まり、芳町の名は柳町、新橋と並ぶ一流の花街としてその名を馳せました。“粋でおきゃんで芸がたつ“ともてはやされたのが芳町芸者。独特の下町気質と、秀でた遊芸が売りで、明治から昭和にかけて、著名人や相場師たちに親しまれました。相場師たちの遊びは「一夜大尽、一夜乞食」と言われるほど派手だったことが伝えられています。芳町芸者の代表は、日本の女優第一号となった貞奴。「オッペケペー節」で一世を風靡し新派の創設者でもある、川上音次郎のパートナーとして、日本の新しい演劇の普及に活躍しました。また昭和初期の芳町からは、歌手の小唄勝太郎が出ています。伝統ある芳町花街の心意気は、現在も人形町のそこかしこに息づいています。

みなさまも人形町にお立ち寄りの際には是非人形町の歴史に注目されてみてはいかがでしょうか?

 

 

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